雨のち晴れ

深夜の喫煙所。

ぼくは屋根のある場所で吸ってた。

後からギターを背負ったおじさんが来て、屋根の端で吸い始めた。

 

「ギター濡れちゃうんで、こっちどうぞ。」

 

「あ、すんません…どうも。」

 

たばこを吸い終わって帰るとき、そのおじさんが笑顔で

 

「ありがとう」

 

って言ってくれた。

ぼくも人を喜ばせることができたなって、少し暗い気持ちもスッキリした。

 

天気は雨だけど、心は晴れた。

時にはブーストすることも大事

頑張らないことと何もしないことは違う。

 

ってコーチが言ってたけど、すごい同感。ぼくは行動する前に考えるけど、その結果何もしない時がある。

 

全てのことに言えるわけではないけれど、時にはブーストすることが大事になってくる。

ぼくの周りで、将来就職しないと言っている人の中には、ただ何もしたくない、楽して金を稼ぎたい、好きなことしかしたくない、めんどくさい、っていうスタンスの人がいる。

 

流石にそれはやばいでしょ。

何か違うと感じるから立ち止まることは大事。でも、その後何するかも大事だと思うんだよな。

ただ、後ろを向いてグチを言っていても何も始まらないと思う。違うなら違うで、なんで違うと感じるか、じゃあ何がいいと思うのか、何でもいいから前に進んで現状を打破しようとしないと、立ち止まることの重要性は無くなってしまうと思う。

 

正直、自分に対する戒めというか、自分もそういうスタンスだったから、気をつけたいなって思う。

 

頑張らないことと、何もしないことは違う。

当たり前だけど、とても重要なことばな気がする。

もうゲームはいらない

子どもって本当にすごい。

何もわからないことは一般的には悪いことだと思われがちだけど、時にそれはとても大きなエネルギーになる。

 

彼らは自分の立場をわかっていない。社会を認識してないからそもそもそういう概念が存在しない。でも、だからこそ好き放題にできる。

 

ぼくは小学生のころ、慶應に入れば一生遊べるよ、という甘い言葉を本気にして社畜顔負けのデスクワークをこなした。朝起きて勉強、学校ついて勉強、下校し塾で勉強、塾の後も自主的に残業。そして無事に合格して慶應に入ったあと、勉強なんかより遊ぶことにすべてのエネルギーを費やした。

 

時間の概念がなくなるくらいゲームで遊び、ゲーセンに通い詰めてほとんどの財産をつかった。記憶に残っている中学の思い出は大体ゲームってくらい。

 

もったいない、なんて言葉はどこにもなかった。

 

でも、今はもう変わってしまった。

携帯にゲームを入れても、switchを買っても、すぐに飽きてしまう。それは、ぼくの遊びに対する考え方が変わったから。

退屈から逃げるように、現実から逃れるために、とりあえずゲームをやる、っていう感覚になってしまった。昔やってたゲームを久しぶりにやっても全然楽しくない。

 

好きこそものの上手なれ。努力は夢中に勝てない。

好きなことに取り組むと誰もが輝く。ぼくはそれをわかっているのにやらなきゃいけない(と自分で決めてる)ことを自分で増やして、忙しい状況を作ってる。結果的に自分が何をしたいかを見失っている。

 

退屈が怖い。

ほんとは何もしてないって分かってても、それを認められなくて、許容できなくて、何かしなきゃって考えちゃう。結局何がしたいのかわからないままに、人と会ったり、出かけたり、就活してみたり。考えてみれば、元から目的なんてないのに、自分の空白を埋めるための言い訳じみた大義名分を探してたから、軸がブレブレって思われるのも当然だった。

 

それはそれでアリというか、ほとんどの人はそういう感じかもしれないけど、ぼくは自分からもっと色々なものを削っていかなきゃって思う。きっとそれは、何もない自分が本当の自分だって直感で感じてるから。

 

最近やる気が何も起きないのも、きっと自分から目を背けて他のことをしようとしていることを自分でわかっているからなんだろうなあ。今までずっと苦しんできた、自分を素直に表現することに対する恐怖を本気で乗り越えようとしてる段階なんだと思う。

 

コーチングを受けてからいろんなことを考えてきて、たくさんのことを得てきた。

誰もが恐れる退屈に自分から飛び込むって結構タフだし辛いけど、同時にワクワクもしてる。

 

文章まとまらない。

たばこ

いつも、たばこを吸う時はただ吸うだけじゃなくて、

煙の味を気にしながら吸っている。

 

今日もアメスピのメンソール。

吸いはじめは、単純にたばこーって感じの味でおいしいなーくらい。

でも、やっぱり吸いはじめが一番好き。純粋に煙だけを楽しめるからだと思う。というのも、吸っているうちに根元の方にはタールが溜まってくから味が変わるらしい。

 

ゆっくり燃えるこのたばこは、ぼくに考える時間をくれる。

最近つまんないなー。日記書くのすらめんどくさいなー。でも何か書くことは続けようかなー。みたいな。

 

それと同時に、味の変化も感じやすい。

今日のは、ミルク、オレンジ、薔薇、メロンの香り。どれも柔らかな触り心地だったことは共通してた。

 

煙を肺に入れずに、口から出してゆらゆらしてみたり、鼻から抜いてみたり、深く吸い込んでゆっくり吐き出してみたり、いろんな吸い方をすれば、その都度新しいたばこの味が見えてきて楽しい。

 

毎日が退屈でも、たばこはいつでも楽しいよ

流れ、をどう捉えるか

今日は愚痴を。

 

最近、流れって怖いなって感じていて、ぼくなりの解釈では流れに任せる、といっても2種類ある。それはつまり「流される」か「流れに乗る」かの違いで、洪水が起きて濁流に流されるか、サーフィンで流れに乗るかの違いのようなもの。どっちも流れに任せるしかないけれど、自分の意思の有無が関わってくる。

 

これを人生に置き換えて考えてみると、周りに流されれば、自分の意思は無いも同然で、自分の未来をコントロールすることはできない。でも逆に、流れを作ってそれに乗れば自分の意思で未来をどうにだって変えることができる。

 

ぼくが感じた社会に対する不満は、憲法で人権の保護とか言うくせに、学校教育をみてみると、まるで子どもを社会の歯車にする工場みたいってこと。

子どもたちは無限の元気と時間があるのに塾にこもって勉強させられ、お受験をしていい学校に入り、記憶力が全てのテストで順序をつけられる。成績がいいやつは偉くて、悪いやつはバカにされる。個性もくそもない。

そうやって幼少期からマインドコントロールをしていって、「自分は便利な部品にならなきゃ!」って思わせる。綺麗にそろったパーツは無事社会に送られて、形の悪い奴らはぶっ叩いて直すか、ゴミ箱に捨てる。しかも、いい部品になっても満足するのは悪い大人だけ。なんならその人たちは自分の望む返事をくれるとも限らない。

 

そんな人生いやだな...。死ぬ気で勉強して、いい大学出て、結果使い心地のいい部品になるなんてつまらないと思う。だから子どもたちには、死ぬ気で遊んでほしい。とにかく好きなことやりまくって、思う存分枝を伸ばしてほしい。

 

言いたいことは、就職するなってことじゃなくて。

流されない意識よりも、どんな流れにしたいかを意識する。あり方であり続けることを大事にした方がいい。そうすれば、自分の過去とか特性、未来を編集することなく生きていける。

 

特に、ぼくみたいにすぐ自分を書き換える癖があると、すぐに人のためとか言いながら他者に合わせようとしてしまうから気をつけないといけない。

最近は、就活とかいって色んなサイトの急かしに流されてたけど、自分を編集するよりも自分をもっと明確にするすることにエネルギーを使うべきだなって思う。それこそ身の回りから、あり方であり続けるとか。

 

会社に入って輝いてる人って、全体からしたら一部だし、そのほとんどがやりたいことを明確に持っていたり、あり方とマッチしていたりする。なんとなく就職しなきゃなのかなーって思うのは、そういう人たちを見て、きっと自分にも合った会社があるのに自己分析とかができてないことを社会にせいにして逃げてるだけなんじゃないかって思うから。

 

ここ数日はそれについて悩んでて、うまく言葉にできないけど、本当は思ってることがあるのにまだ自分を信じられていなくてそれに向き合おうとしてない感というか、突き抜けられていない感というか、もやもや感が残る。

悪い感じに自分の特性が出ちゃってる気がする。

 

あの人が言った

「おれは福井くんにこのあり方であり続けてほしいなぁ」

って言葉が忘れられない。

 

何かすごい大事なものに気づかせてくれた気がする。

ぬおおおおおおおお!!!!

モヤモヤするうううううう!!!!!

コーチとは別の大事な存在

今日、とある友達と飲んだ。

 

その子とは高校の時からの知り合いで、偶然大学が同じになりサークルも同じで、かつ一緒に歌を歌ってきた人。

 

今日話すまで、正直なんだこいつって思っていた。自分と性格か感性かなんかが似てるけど、でもよくわからなくて、表面に出てる人格と本当の彼女のギャップが激しいから、なんかいけすかない人だなって感じだった。

 

ても、最近コーチングを始めて、新しい世界が見えてきたことで、これを誰かと共有したいと思った時に、その友達が思い浮かんだ。なんか変なやつだけど、なんとなく通じる感じがしたから。

 

話して分かったことは、彼女も自分と同じように、これまでたくさんもがき続けて、最近やっと本当の自分を認めることができていたということ。まさかここまで似た境遇とは思わなかったけど、本当に共感しかなかった。

 

いい感じだね、とお互いの成長を確かめ合う中で、似た経験をした人とコミュニケーションをとれることがどれだけ貴重かを噛みしめていた。

 

偶然彼女もコーチングに出会っていて、これまでぼくが経験した全てを分かり合えた。もがいていた時、他人からすれば「何を考えてるかわかんないけど、すごい大変そうな人」って映っていて、内面に向き合うことの重要さを理解されなかった。2人ともとにかく辛かったけど、自分を信じて突き進んできた。それで、やっといまそれぞれが輝いてるし、自信に満ち溢れている。

 

だからこそ、このレアすぎる体験のありがたみをすごい感じた。ありのままの自分を認めるということがどれだけ大変か、そこの壁を突き破る方法は単純すぎるのに沢山の人ができない。そのことをお互いに「わかるー!!」って共感できた時は、改めてこれでいいんだって思った。

 

普段なにも考えずに生活してると、気づかないうちに周りの当たり前を自分にも適用しなきゃってなってしまうから、リセットする意味でも本当に貴重な時間を過ごすことができた。

 

 

ぼくにとってコーチというのは、近くもなくて遠くもない存在。単純に自分とお話ししながら自分の現在地を示してくれる。味方でもないし敵でもない。

 

この存在は他にはない唯一の関係だと思うけど、同じような境遇の人とすべてを吐き出しあえるのも、唯一の関係だと思った。

 

 

その友人との時間の中で印象的だった直近の出来事をひとつ。

最近、ぼくは就活に本格的に力を入れていこう、とひとまずいろんな就活サイトに登録してみた。いろんな企業情報をみて、口コミをみて、ホームページをみた。でも何かが違う。このなんとも言えない危機感と違和感を掘り下げていった末に出てきたのは、就活の目的や自分のあり方とマッチングの仕方のギャップ。

 

その友達の言葉を借りると「まじTinder」

 

しっくりきすぎた。

本当にこれで自分の行きたい企業に出会えるのか?この疑問に目を背けなくてよかったと思った。

 

少なくとも自分がみた就活支援サービスはどこも似たような感じだった。

じゃあこれからどうするか。次に出てきたこの問いに対してぼくが出した結論は「就活とは何か、ではなく、自分がなんで就活をするかを大事にしよう」というもの。

 

なんで就活するか。

ついさっきまでは心の奥で「就活=内定をもらうため」っていう式が強く残ってたけど、内定をもらうことがぼくの人生の中のステップとしてそこまで重要かというと、そんなことはない。

 

ぼくは、疑問に思ったことをなぜ疑問に思ったか、なにに違和感を覚えたのか、その違和感をどうしたらいいのか、そういったことを自分の中でとにかく考えぬいて、ポン!って自分の中に答え出す考え方をする人間。

 

いまの自分は、そのポン!がたくさん出るようになっていて、その結論を表現する経験が少ない。正しい間違ってるではなく、これがぼくにとっての考えだ、って相手に伝える機会が多くない。

 

だからこそ、それを言葉にできたらさらに明確になるし、明確になったらさらに言葉にできる、っていういいサイクルが生まれることを分かっている。

 

つまり、就活はこの経験のために使いたい、って思った。だから、気づかぬうちに内定のために就活しようとしていた自分に違和感と危機感を覚えたんだと思う。

 

 

これからは、自分の価値は自分が決めている、っていうことを実践に移して、たくさんいいものを集めるステップが始まると思う。

 

なんかよくわかんないけど、きっと自分すごいから(ってことにする)、大丈夫な気がする。

趣味と仕事の違いってなんだろう

これがぼくの最近の疑問だ。

まずはじめに、お金をもらうかどうか、

ってことが思いつく。

 

ただ、うーんと思ってしまう。

 

お金をもらうってことはプロであるということ。プロであるということは、その事に対して専門的で、かつ周りからも認められていること。そしてお金を払ってでもその人の持つ価値を得たいと思われていること。

対して趣味というのは、そのほとんどがお金をもらえないけど、人によってはその趣味に生活の全てを注いでいるし、誰よりも精通していたりするし、認められていたりもする。その時点で、お金をもらおうとしたら貰うこともできる。

 

そう考えると、お金が発生するかどうかって大した違いじゃないのかもしれない。

 

YouTuberという仕事が最近のトレンドだけど、彼ら(正確には彼らの所属する事務所)が「好きなことで生きていく」というスローガンを謳っているだけあって、この仕事は趣味の延長みたいな感じで認識されている。じゃあ趣味の延長だからといって、誰もがYouTuberになれるのだろうか?

 

テレビに名前が出てくるようなYouTuberたちは、単純に好きなことで生きていこうとして、YouTuberをやっているのか。好きなことを生業にしよう、と考えて取り組めば失敗しそうなのは簡単に予想できる。好きなことを突き詰めたら生業になってた、という方が正しそうな気もする。

 

「好きなことで生きていく」YouTuberを、夢のある仕事だって羨む人間はかなり多いけど、教授も似たようなものだと思う。きっと彼らが学生の頃は、目の前の学問で食っていこうだなんて思わなかったはず。彼らこそ、好きなことで生きている人間じゃないだろうか。

オタクの極みとしか言いようがない。

 

 

結局、仕事と趣味のどこが違うかはわからないけど、大事なのは「これだ!」と思ったら、自分を信じてただひたすらに突き進むことだと思う。

 

仕事であっても趣味であっても、周りはこうだ、とか気にしちゃダメなんだろうな。趣味じゃないことを仕事にするにしても、自分がなぜ仕事をしているかを大事にして、あとはそれを信じてやる。もし、周りも仕事してるし…、就職してるし…、っていう理由で仕事をしたら、きっとそれは続かないしそこから得るものは何もないと思う。

 

きっとそれは趣味でも同じことが言える。

最近の流行りだし、とか、これやったらモテる、とかじゃ趣味とは言わない。お金とかどうでもいい!流行とかどうでもいい!とにかく楽しいから、好きだからこれやりたい!っていうのが趣味じゃないのかな。

 

仕事は趣味じゃない!辛いこともつきものだ!楽しさなんて甘えだ!っていうのは言い訳だと思う。そんなのは当たり前のことじゃないか。楽しさなんて誰も提供してくれない。楽しむんだ。
好きなことをやるにしても、必ず辛いことはあるし、楽しくないこともある。でもそれ以上に「やりたいからやってる」事が重要なのではないか。

 

YouTuberも動画の裏では必死こいて動画作っていて、それは立派な趣味だし、立派な仕事だ。

仕事熱心な人も「社畜」なんじゃなくて、仕事に意義を見出しててそこに熱中している。夢中という点では趣味とも似ているような気がする。

 

ぼくが思うに、お金が発生するかどうかは大きな違いじゃない。そこよりも、仕事も趣味も本質的に大事なことがあって、それを見失ってはいけない。趣味って思うことも、突き詰めていったら仕事になったりするんだから。

  

 

やり方よりあり方。

少しずつ見えてきた。

 

ただ、ひとつ残る疑問は「何もしたくない」という気持ち。これはこれから考えていこう。