もうゲームはいらない

子どもって本当にすごい。

何もわからないことは一般的には悪いことだと思われがちだけど、時にそれはとても大きなエネルギーになる。

 

彼らは自分の立場をわかっていない。社会を認識してないからそもそもそういう概念が存在しない。でも、だからこそ好き放題にできる。

 

ぼくは小学生のころ、慶應に入れば一生遊べるよ、という甘い言葉を本気にして社畜顔負けのデスクワークをこなした。朝起きて勉強、学校ついて勉強、下校し塾で勉強、塾の後も自主的に残業。そして無事に合格して慶應に入ったあと、勉強なんかより遊ぶことにすべてのエネルギーを費やした。

 

時間の概念がなくなるくらいゲームで遊び、ゲーセンに通い詰めてほとんどの財産をつかった。記憶に残っている中学の思い出は大体ゲームってくらい。

 

もったいない、なんて言葉はどこにもなかった。

 

でも、今はもう変わってしまった。

携帯にゲームを入れても、switchを買っても、すぐに飽きてしまう。それは、ぼくの遊びに対する考え方が変わったから。

退屈から逃げるように、現実から逃れるために、とりあえずゲームをやる、っていう感覚になってしまった。昔やってたゲームを久しぶりにやっても全然楽しくない。

 

好きこそものの上手なれ。努力は夢中に勝てない。

好きなことに取り組むと誰もが輝く。ぼくはそれをわかっているのにやらなきゃいけない(と自分で決めてる)ことを自分で増やして、忙しい状況を作ってる。結果的に自分が何をしたいかを見失っている。

 

退屈が怖い。

ほんとは何もしてないって分かってても、それを認められなくて、許容できなくて、何かしなきゃって考えちゃう。結局何がしたいのかわからないままに、人と会ったり、出かけたり、就活してみたり。考えてみれば、元から目的なんてないのに、自分の空白を埋めるための言い訳じみた大義名分を探してたから、軸がブレブレって思われるのも当然だった。

 

それはそれでアリというか、ほとんどの人はそういう感じかもしれないけど、ぼくは自分からもっと色々なものを削っていかなきゃって思う。きっとそれは、何もない自分が本当の自分だって直感で感じてるから。

 

最近やる気が何も起きないのも、きっと自分から目を背けて他のことをしようとしていることを自分でわかっているからなんだろうなあ。今までずっと苦しんできた、自分を素直に表現することに対する恐怖を本気で乗り越えようとしてる段階なんだと思う。

 

コーチングを受けてからいろんなことを考えてきて、たくさんのことを得てきた。

誰もが恐れる退屈に自分から飛び込むって結構タフだし辛いけど、同時にワクワクもしてる。

 

文章まとまらない。