今の自分にとって成長とは

常に変わり続けたい。

 

これはぼくが大学に入ってから強く思うようになったことで、チャンスと思ったことには首を突っ込んできた。

 

でも、何かが違う。物足りない。

という気持ちもずっとそばにあった。

 

 

今考えてみて思うのは、ぼく自身が何をどう変えたいか、それに明確なイメージを持っていなかったなあと思う。

ぼくが変わりたいと思っていたことは、相手と向き合えていないこと、本質的にえば、自分に素直でないことだった。相手と向き合うとき、誰からも影響を受けない自分の意思や考えを持つことが大事だってわかった。それがなければ、「相手に合わせて」自分の本意でないことをしてしまう。

 

そうすると、後悔が必ず残る。

その状態で相手のために、って思ってやることは、単純に自分の意思を消しているだけで、コミュニケーションすることを放棄している。

 

 

今までは、自分の思うことを表現するためには、何か特別な、オンリーワンなことをしなきゃと思っていた。起業もどきをしてみたり、ネットビジネスやってみたり。

 

たしかに周りからは面白いね、とかすごい、とかは言われたことはあるけど、ぼくの目標はそれじゃ達成されなかった。これらの選択は全部、結果的に最高の決断であったとは思うけど。

 

つまり、自分の思うことを自信持って表現する、というのは自分の内面に向き合っていればいいだけの話でそんな難しいことはない。

自信を持って話すために何かを始めるっていうのは、なんの解決にも繋がらないし、返って沼に引きずり込まれていく。でもこれって意外とやりがちなことだと思う。

 

 

なんていうんだろう。

ゴールに向かうために道を作るのではなく、ゴールに向かっていれば、自然と道ができる、みたいな。

ケーキは切ってから分けるんじゃなくて、分けてから切る、みたいな。

 

アプローチの仕方を逆にする感じ。

 

だから、今の自分にとっての成長は、自分の内面を見つめることと、それをアウトプットすること。それを通じて、自分の選択を尊重すること。

 

それができたら大したもんだ。

◯◯理論

無意味な行動なんてない。

 

夢は全て叶ってる。

うまくいかない、というのも自分の中ではうまくいきたくない、っていう抑止がかかってて、うまくいっちゃいけないって思ってるからうまくいかない。

 

夢、叶ってるじゃん。

 

 

物事がうまくいきすぎると、不安になる。

このままでいいのかな、とか失敗するんじゃないかって悩み始める。でも、うまくいかなかったら、その時考えればいいじゃん。自分の思い通りになりそうだったらそれを受け取っていればいい。

 

今の自分はまだメンタルブロックがあるけど…いややっぱないわ。

本当は、このメンタルブロックも自然と無くなっていくのかなって思ったけど、多分それってもうすでにブロックしちゃってる。だから、メンタルブロックないわって思ったらそれだけでいいし、もうそれで全部オールオッケーじゃん。

 

 

もう、人生余裕だわ。なんでもうまくいく、というか何があっても大丈夫だと思う。きっと、いわゆる「自分のあり方」っていうのも、こういう感じなんだろうな。わかんないけど。

 

肉草理論、カロリー0理論。

命名するような理論は特にないけど、自分の理論を大事にしていきたい。というか突き詰めていきたい。自分っぽいから、きっと最高に気に入ると思う。

 

他人の真似事しても誰も褒めくれないし、ただの真似っこ上手な人じゃんそれって。だったら自分が一番好きなスタイルやるしかないんだよ。

多分それで大丈夫。

 

 

うまくいったら、やったね!ってニヤニヤしてようと思う。

セラピストとクライアント

昨日、臨床心理の本を読んだ。

課題として読んでいたから最初はつまらないなぁ、と思いつつ、だらだら読んでいたけど、読み進めるうちにだんだんと引き込まれていった。

 

というのも、いまの自分とコーチの関係と、クライアントとセラピストの関係が似ていたから、いろんな視点からこの本を楽しむことができた。

 

本の名前は「症例でたどる子どもの心理療法」というもの。セラピスト(臨床心理士)と、ある1人の男の子(クライアント)のセッションをたどった本だが、ここで取り上げられている男の子は自閉症と診断されていて、セラピストとのセッションを経て、少しずつ周囲の人とコミュニケーションが取れるようになっていった。

 

その中で、セラピストは言葉によるコミュニケーションが取れないクライアントに対して、ひとつひとつの動作やクライアントが描く絵から心情を読み取り、交流を図っていた。

 

 

人と触れ合う時、ぼくは知らぬ間に観察している。これは本心じゃないな、本当はこう言いたいのではないのか?、みたいに考える以外に、その人の様子だったり言動、目線だったりも観察することがある。

 

メンタリストじゃないから、全てが分かるわけではないけど、コミュニケーションというのは言葉だけではない、ということをすごく感じる。

 

いまはコーチングという形でコーチと定期的に会っているが、「意思を持った鏡」という表現がとても面白かった。

文字通りコーチはぼくが話すことを、そのまま返してくれる。ぼくは自分でそれを聞いて、あ、これってこうなんだって気付いたり、自分の悩みが自然となくなったりする。

 

でもきっと、コーチはぼくの言うことをそのまま返そうとして返してるわけではないんだろうな。ただ、ぼくと面と向かって話してるだけな感じ。

正直すごい不思議な感覚になる。

 

 

ぼくは、自分の中にもう1人の自分がいて、その存在が自分の周りを飛び回って色々観察していて、本体(?)はただ考えごとをして話しているだけ。ちょこちょこもう1人の自分が「いまきっとこう見られてるよ」とか「これ、言うべきじゃない?」って声をかけてくる。

 

これがいわゆるぼくの才能なんだろう。

うまくいけば、とてもパワフルにぼくを輝かせてくれるけど、ひどい時はどんっどん沼にはまっていく。

 

まだまだ自分を扱うことで必死だけど、少しずつ成長してきている実感が湧いている。

何を選ぶか、より選んだものをどうするか

幸せってなんだろうって考えてみる。

 

たくさんの人に囲まれていること

お金をたくさん持ってること

何不自由なく過ごせること

 

あげたらきりがないけれど、それがあったら幸せだ、と言えるのか。

逆にそれがなければ幸せじゃないのか。

 

きっとそうじゃない。

ぼくは今まで何があれば幸せなのか、もっとも、お金が全てだと考えていた。

 

だけど、結局そんなことはなかった。これがあれば幸せだ、なんて考えは幸せじゃないなっておもう。

 

つまり、他者によって幸せを定義していても仕方ないって思うようになった。

というのも、最近の自分の過ごし方を振り返ると、これがあれば満足、というぼんやりしたゴールを訳もわからず追いかけていた。

 

1人じゃ寂しい、って感じていたのも、相手から「すごいね」みたいな羨望の眼差しで見られることとか、褒められるのを求めていたから。

心のどこかでそんな目的をもっていたから、相手が期待に応えてくれなかったら嫌な気分になる。

 

なんてたちの悪い人だ。

 

別にそうだった自分を嫌いになるわけではないけど、"選択"の目的を把握していなければ、道から外れていても気づくことはないし、しわあせを感じることなんてできるはずもない。

 

つまり、自分が何を選択するかに焦点を置いている段階にいてはダメだということ。

 

自分の選択を尊重して、責任をもつ。

これの繰り返しをするしかない。自信もその積み重ねに伴ってついてくるもの。

 

 

今ぼくがいる環境はどんどん変化していっている。

収益を上げて、その先に自分のやりたいビジネスを始め、将来こんなことがしたい、と目的を持って歩き始めている。

 

自分の中を整理することに全てのエネルギーを捧げているぼくに対して、「なにやってんだ!目の前のタスクをこなして結果を出せ!」って言い続ける自分がいる。

 

でも、ぼくは今、自分の選んだことを重要だと感じているし、それに取り組むことで充実感を覚えている。

 

いろんなことを突き詰められずに、結果という結果を残していなかった。でも、ぼくにとってその結果というのは自分のための結果ではない。

他人から褒められたい、すごいと言われたい、そんな欲求を埋めるための結果だった。

 

 

心の中で、他人は必ずしも褒めてくれない、他人は自分を褒めるために存在しているのではない、ということをわかっているのに。

 

 

じゃあ今、どうすればいいのか。

それは自分が選んだこと、他人のためにとかそういう理由で選んだものではなくて、自分が本当に必要だ、やりたい、こうなりたい、と素直に感じることに真っ直ぐ向き合い続ける。ただそれだけ。

 

 

一日二日で結果を求めてはいけない。焦ってはいけない。常に自分を主体に考える。

 

自分の周囲の人間と同じである必要なんてないんだ。自分は自分の道をかき分けていればいい。

自分がもつたくさんのエネルギーを、自分のために存在していない他人に使っても仕方ない。

 

自信をつけるためにアレをやる、

なんて訳のわからないことを堂々と叫んでいた自分とはこれでさようならだ。

 

 

本当の気持ちをいうと、とってもとっても怖い。誰かに泣きつきたい。よしよし、って頭を撫でられていたい。

 

 

でも、強くなるために必要な道のり。

そこから逃げてはいけないし逃げたくないし、よくよく考えてみると他者に自分の幸せを求めてひた走るよりかはマシだ。

 

この不安はきっとすぐにはなくならないだろう。でもきっとみんな一緒で、みんなもがいてるはずだ。

答えがわかってる状態なんて人生においてはありえないんだ。

 

 

こういう考え方をできているって時点で、今の自分によく頑張った、って言ってあげたい。

 

あんだけ暗闇の中を走り続けていたのに、自分で暗闇の中から光を生み出した。こんなこと、昔の自分ではできるはずなかった。

だから、大丈夫。そのままで大丈夫。

 

 

ふわふわした感じがする。

地に足がついていないという不安とも言えるし、空を自由に飛んでるとも言える。

 

 

そのままどこまでも行こうと思う。

たまにはお酒でも飲みながら。

 

"危機的状況"を自らつくる

昨日から年明けまで家族と一緒だ。

生活スタイルが全員ずれているため、家族が4人顔を合わせるのは、誕生日くらいしかない。

 

20年間の中で、家族と食卓を囲んだことがほぼなかったからこそ、こうして4人でいると恥ずかしいけど、うれしい。

 

 

という訳で山梨県まできてるが、昨日は御殿場のアウトレットで買い物をした後に、レストランで食事をし、宿に向かうというプランだった。

 

運転はぼくと父で担当していて、行きも2人で交代しながら運転した。

父親はぼくよりも運転歴が長く、ぼくが運転すると結構口を出してくるタイプだ。「あーいま行っとけよ〜」「え、大丈夫?」「速すぎない?」など、あらゆる場面で言ってくる。

 

今まで、何か言われたら無条件にそれに従っていると、後悔したり周りに迷惑をかけたりすることがあった。

 

 

ぼくは機械じゃないから、やっぱりこれ違うなぁとか、自分で物事を考える。

だからこそ、自分の意思に反して、なにも考えずに行動すると必ず後悔する。

 

運転の時は周りに迷惑をかけてしまったり、道を間違えてしまったり。

 

 

学んだことは、人に介入させない、もしくは人が介入できないスペースを持つことはとても重要ということ。

 

それと、相手の意見の捉え方。

他人はその人なりの解釈で考えるし、意見をいう。だから、それをどう捉えてもいい。

 

ただ、その捉え方を間違えると、お互いのためにならないやり取りになることもある。

 

ぼくの場合は相手の意見を「答え」だと認識していたことか良くなかったんだと思う。

それはぼくにとっての習慣だったから、気にしなければ変わることはないはず。

 

 

逆に、自分から相手の意見を「意見」として捉えなければならない状況をつくれば、必然的に変わらなければならなくなる。

 

ぼくにとってそれは危機的状況なのかなって思う。

そういう時って全部自分で決めなきゃいけないし、人のせいにもできないから。

 

そういう意味で、昨日みたいなケースはぼくにとっていい成長の機会にもなるなーって思った。

 

 

最近は、この前みたいな感動!とかはないけど、少しずつ自分が変化してるのを実感してる。

日々の習慣を大事にしようと思った。

スーツを着ると背筋が伸びる

ゆるい服が好き。

今年は茶色の服を着たい気分だったけど、一着も買わなかった。

 

クリスマスイブに彼女と下北に出かけて、古着屋さんをめぐった。

 

古着に手を伸ばしたいっていう興味はあったものの食わず嫌いをしていたので、

「なんでもっと早く来なかったんだ」

って後悔した。

 

それくらい古着は魅力的で、古着屋巡りがとても楽しかった。

 

 

たくさん置いてあるから最初は混乱したけど、いざ手に取ってみると、こんな着方したらオシャレだな、とかこれは似合わないな、みたいな感じで服と対話することができた。

 

その日、ぼくはパンツとインナーとアウターとメガネを1つずつ買った。

 

最初は彼女がこれ似合いそう!って選んでくれて、実際に自分も満足したんだけど、買うか迷ってたら彼女から「なおきが本当に好きなら買ったらいいと思うよ。」って言われた。

 

 

ああ、そうか。それでいいのか。

ということで、とても気に入ったので買うことにした。何を迷ってたんだ自分。

 

 

まあ、そんなことがあったのだが、昨日は初めて就活の面接というものを受けてきた。

結果から言えばとても気楽に話すことができた。

 

というのも面接に対して、就活生がいかに面接官の希望する回答を言えるかゲームみたいなイメージを抱いていたのだが、今回の面接官はぼくに何も求めていなかったからだ。

 

それなりに判断基準はあると思うけど、あの面接官はその上でぼくと対話をするように目の前に座っていたはず。

 

 

約半年ぶりにスーツを着て覚えた印象は着心地の悪さだった。でも、やっぱり自然と背筋は伸びる。

 

今まではスーツを着ると、決まって緊張していたけど、昨日を振り返ってみると着心地がどうのこうのと考えられる程度には自然体でいられたことに気がついた。

 

 

ああ、少しずつだけど本当に変化してる…。

 

最近は毎日そう感じる。今はまだかすかな変化だけど、これが少しずつ自信につながっていくんだろうと思うと、毎日がとても楽しいし、ウキウキする。

 

 

自信がついて強くなったら、本当の意味で人のことを思って行動できる人になりたい。それってすごくカッコいいなって思う。

 

 

まあ、気楽に生きていこう。

たくさん人に会おう。

寝る寝る寝るね

昨晩、考え事をしたり、電話をしたりで夜更かしした結果、寝坊して授業に遅刻した。

 

朝は起きられたけど、積極的に二度寝した。

 

学びに行っている意識がないから当然のこと。もっと言えば普段のルーティーンに目的を持っていなかったから。つまり、寝坊したから遅刻したのではなくて、ぼくはぼくの意思で行かなかっただけなのかな、と思う。

 

夜更かしも悪いけど、本当はそこが原因なんだろう。それは学業だけじゃなくて、自分の生き方にも結構な頻度で現れてる気がする。

 

自分がこうしちゃったから、とかこれがこうだったから、とか。でも結局は自分の意思は最初から決まってて、それにつけられる理由を探してる、みたいな。

 

 

今日の経験を通して、やっぱ自分に嘘をつくもんじゃない、って感じた。

 

とりわけぼくの場合は、すぐに自分に着ぐるみを着せてしまうから、当然のこととわかっていても意識した方がいいと思う。

 

なんでそう判断したのか。

善悪なのか。

真偽なのか。

好悪なのか。

 

本当はどうしたい?

本当はどうなりたい?

 

そうやって自分の中に「問いかける自分」がいて、さらにそのやり取りを眺めている「空飛ぶ自分」もいる。

結局は全てが自分なんだけど、自らに問うことの積み重ねが今のぼくには必要なんだと思う。

 

きっと悪い癖で無駄なことも考え始めるけど、最近のぼくは今までとは一味違う。

何から何まで、すべてが楽しい。

特に、考えることが。

 

考える対象がくっきりしてることが、こんなにも充実しているのか!って感じる。

 

 

調子に乗らないように気をつけなきゃだけど、今ならなんでもできそうな気がする。

まるで子どもみたいに。

 

毎日が新しい発見だらけで、何事にも興味を示して、何事にも本気で取り組む子どもは輝いてみえる。

 

そんな力強さを大人になった今も持てたらどんどん世界広がりそうだと思う。

 

なんか、ここ数日いろいろうまく行ってて、嵐の前の静けさのような不安を感じる。もっとも、きっといまの自分ならその嵐が来ても立っていられる気がするけど。

 

 

 

全然まとまらないや!でもいいや!

今年も色々あって楽しかった。